かつて宮田村では水車屋があり、嘉永五年(1852)には十四軒ほどあった。文化期頃に三軒、文政天保期(1818-45)頃に七軒ほど増加し、弘化嘉永期に四、五軒ほど増加した。
宮田村の古老によれば昭和初期の水車は小屋の中にあったという。下に流れる水で回す下射式で、現在その水路跡が残るのは宮田村本多田島の栗本家だけである。水路の幅は一間(約1.8m)以上で、速く回すために落差をつけるため、できる限り長く水路を作った。流水で水路の底が掘れないよう、板や石を敷き詰めたという。多くの水車小屋は、この水路上に建てられ、小屋の中に水車を置いた。
水車の直径は二間(約3.6m)ほどであったが8m近いものもあったという。この水車の軸に爪をつけ、この爪の回転によって堅杵が持ち上げられ、たつ高さまでくると外れて石臼に落下することにより、脱穀・精米・搗麦(つきむぎ)等をおこなったという。
灯火用と防水用で使われる綿実油・荏油・菜種油が当地で大量生産された。菜種油は種油ともいわれ灯火用に、荏油は荏ごまを絞った油で灯火用や防水用に、綿実油はワタの実を絞った油で灯火用に使われた。綿実油を精製したものを白油という。尾北地方一帯では畑地栽培作物の夏作物の一位、二位が荏で、綿も多く栽培されていた(『新編一宮市史資料編九』『岩倉市史上』)。綿実油では、最初に綿実からかわをとり、水車で粉にして真粉を作り、真粉を蒸して絞り器で絞って作る。
菜種は海東郡や中島郡で買い付け、宮田村まで船で運ばれる。絞り粕は肥料になったが、天保十五年に真粉粕は桑名・四日市へ、荏粕・種粕は兼山・関へ送られた記録がある。種油は船送りの記載がなく、当地で消費されたとみられる。天保十五年に白油327樽、綿実油55樽、荏油60樽が名古屋へ出荷された史料が残るが、買い付け量をみると少なくとも七百樽以上の生産されていたようだ。
参考:江南市教育委員会・江南市史編さん委員会『江南市史 本文編』(愛知県江南市、平成13年)355-366頁