関ヶ原の戦い後、美濃は幕府の直轄領となり、美濃国奉行には大久保石見守長安が任じられた。慶長十八年(1613)に長安が病没すると、生前の不正が露見し、一族は処刑され、財産は幕府に没収された。その後、その配下の代官の岡田将監善同が代官職を継ぎ、美濃代官初代となった。善同は岐阜米屋町に陣屋を構えていたが、名護屋城造築には木曽材採出奉行、大坂の陣には陣道具奉行、伊勢神宮造営には山田奉行として関係した。

笠松陣屋が設置されるまで

その前後、慶長十七年(1612)、元和元年(1615)、元和五年(1620)と美濃国内に尾張藩領が設けられ、木曽山や木曽川沿岸、岐阜、長良川・揖斐川の川湊など計一二万石余が尾張藩に譲られた。岐阜が尾張藩領となった後は、可児郡姫郷に陣屋をおいて政務が行われた。寛永八年(1631)所領替えのため揖斐に陣屋が移された。

岡田善同の子・善政が寛永八年についだ。揖斐陣屋から可児郡徳野に陣屋を設け、木曽川大洪水の復旧のため、笠町に治水工事監督の際の休息所を設け、これが後の笠松陣屋の基盤となった。美濃国内には一七世紀から一八世紀初めにかけて、十数カ所の陣屋が存在し、それぞれ幕領を支配していたが、やがて笠松陣屋に統合されていった。

三代代官・名取半左衛門長知は寛文二年(1662)に可児郡徳野村の陣屋から陣屋門や玄関・書院などを移し、笠町へ移して笠松村と名を改め、笠松代官陣屋を設置した。

治水工事に尽力した歴代代官

四代代官・杉田九郎兵衛は但馬代官から寛文八年(1668)美濃代官に転じた。在任十五年で勘定頭へ転出した。

五代代官・甲斐庄四郎右衛門正之は天和三年(1683)十月代官となった。貞享二年(1685)五月辞職し、小普請入りの後、発狂して食録を収められた。

六代代官・岩手藤左衛門信吉は勘定組頭から貞享二年七月代官となり、元禄一二年(1699)老齢を理由に退職し、寄合に列した。

七代代官・辻六郎左衛門守参は御勘定組頭より元禄一二年美濃郡代となった。美濃郡代の始めとされる。辻六郎左衛門は相次ぐ洪水のため木曽・長良・伊尾川筋の堤を公儀普請として修理した。そして根本的には下流で新しく堤や猿尾を築き川幅を縮めたためであるとして桑名川通取払工事を行い、関連して宝永元年(1704)から木曽・長良・伊尾川筋の障碍物取払いを行った(宝永の大取払い)。辻は将軍吉宗の享保改革に挙用され郡代から享保三年(1718)七月勘定吟味役となったが、享保一七年(1732)老齢を理由に辞職し寄合に列した。

八代代官・辻甚太郎守雄は小姓組から代官に赴任した。享保一七年(1732)には郡代に昇進した。洪水復旧に尽力し、享保一〇年(1735)五月一七日に死去した。享保改革の一環で美濃国の幕府直領はこの郡代の折、諸代官の支配が統合され美濃郡代(笠松陣屋)に一本化された。

参考
『美濃加茂市史 通史編』(美濃加茂市、昭和五十五年)317頁
『大野町史・通史編』(岐阜県揖斐郡大野町、昭和六〇年)259-263頁

羽島郡笠松町県町
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