天明三年(1783)に清須代官が置かれた。天明元年(1781)国奉行役所が類焼して新築されるのを機に、尾張藩は所付代官を設置し、給知・蔵入・寺社領問わず全ての村を所付代官の支配下として村への命令伝達を一本化した。それまで尾張藩は国奉行の下に代官・郡奉行を置き、代官は蔵入地を郡奉行は給地を管掌して、国奉行所で租税賦役の徴収や宗門取締など民政を処理していた。所管の村々に行かなかった為、実態把握が不十分となっていた。山方野奉行や用水奉行もやがて廃止され代官の管掌へ移され、圦奉行も主要な圦・橋の普請・修復のみを担当するようになった。
天明元年(1781)五月:佐屋、北方(現一宮市)、水野(現瀬戸市)
天明二年(1782)四月:鳴海(現名古屋市緑区)、小牧、鵜多須(現愛西市)、太田(現美濃加茂市)、円城寺(現笠松町、天明五年廃止)
天明三年八月(1783):神守(現津島市、享和三年-1803廃止)、横須賀(現東海市)、上有知(現美濃市)、清須
清州代官の役高は75俵、支配区域は中島郡・春日井郡・海東郡の一部で、村数184、惣石高は14万7454石5升、そのうち蔵入3万4840石2斗6升7合、給地11万2311石3斗3升1合である(林董一『尾張藩の給地制』)。陣屋には檻が設けられ、費用は罪人の出た村の下用から出された(『分地中川精逸家文書』)。
陣屋(代官所)は明治元年に廃止され、庁舎は明治四年八月時点で清州出張所として使われていた。のちに一部が分地三四番地へ移され、現佐藤鎗四郎が使用している。玄関は間口二間で、当時の威容を今に伝えている。
オジンヤ、ジンヤアトと呼ばれる畑地があり、その北にはウマノジョウという土地が、南には一丈幅で東西に延びるヤクショウミチがある。ヤクショウミチを西へ行くと六角堂があり、古川悪水路に架けられた橋は「役所橋」という。文化十年(1813)の太田家文書『井ノ口江通用水古川悪水江通間数字名改帳 春日井郡落合新田庄屋惣右衛門、治右衛門』にも「御役所橋ヨリ北市場天王超迄長八拾間」とあり古くからの名称であることが分かる。
参考:春日村史編さん委員会『春日村史』(愛知県西春日井郡春日村、昭和三十六年)39-41頁