乙原には近世に始まった土場があり、船が着いて薪や炭を河川で運んでいた。土場では土場運上が課税されていた。

この久瀬村では、古生層の山々が大部分を占め、各所で石灰石が露出している。寛延三年(1750)の『濃陽志略』には「石灰、近時造窯焼之貨干四万」とあり、石灰の製造はそれ以前から行われていたのだろう。

安永二年(1773)四月、乙原山の石灰元締の半兵衛・次郎右衛門、さらに庄屋常次郎・組頭半左衛門らが、名古屋の石灰問屋の加藤惣右衛門に宛てた文書には、御城下の灰屋中へ乙原山生産の石灰ばかり売渡し候様に相成と、名古屋城下の石灰問屋との取引が記されてある。乙原部落の故。また、高橋宗平氏によれば、乙原の石灰は品質が良く、江戸城内の御用にも送られたという。

天保の『石灰入津覚』によると、質の劣る坪之谷(武儀郡津保谷か)産の石灰を強制的に売らされた問屋仲間が、従来通り乙原村の石灰を扱えるよう領主・石河氏の御屋敷へ願出てほしいと、乙原村の庄屋・高橋長蔵と高橋常右衛門に依頼したという。その後、免許書が発給され、乙原村には城下の石灰屋が支障なく商売できるよう石灰を供給すること、また貫売などの問屋を通じない販売を行わないことを義務付けられた。一方、問屋側は他領産の石灰を買入れた場合、御屋敷へ訴えられることになった。当時、乙原村では八口の石灰竈(がま)を持ち、運上金も一口二両ずつ計六十両を毎年納めていたが、さらに十年分とし一度に百両の前納を約束するほどの大きな産業であった。安永の頃から続く八口の石灰竈は、天保初年の飢饉で人口が急激に減少し労力不足で竈数の維持ができなかったのだろう。これが、他領石灰の進出を許す一因となり、さらに新竈建設の制限による生産抑制と値上げ策は、問屋仲間にとって痛手であり、彼らは乙原村に対し、従前どおり他領石灰の入津差止め願書を提出するよう働きかけ、乙原村としても自己の商圏を確保したいためこれに応じたのである。

しかし他領石灰産地も黙っておらず、天保四年四月に願書を尾張様御役所宛に提出した。翌年の天保五年五月に係争は終結し、乙原村の他領石灰入津差止めは成功せず、三割の他領石灰の進出が許されることになった。

『石灰積入帳』と『石灰勘定帳』によれば、弘化四年(1847)の高橋常右衛門から名古屋の石灰屋・梅屋清兵衛宛に、年間6909俵、船数二六艘分、代金受取九六両となっている。その他の問屋へ送ったものを含めて、十万俵を超す能力を持っていたとされる。

参考:『久瀬村誌』(揖斐郡久瀬村、昭和48年)234-243頁

揖斐郡揖斐川町
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