五條橋の西北の川岸にある。当社勸請の年月は不詳であるが、もとは清洲の四天王として祀られてきた神社であるといい伝えられており、当城下が繫栄していた頃の勧請か。その四天王というのは、現在の清洲本町・五條川岸外北市場・海道端朝日村の内の社と、当社である。
さしたる大社ではないが、例年六月十四日の祭りは、当国第一の奇観で、稚川の両岸に花火の大筒を数十本設け、花火方は東西の岸より、川中へ水楼のようなものを作り、そこに集会し、その業をなす。家々の四半吹流は、風に翻りひらひらと揺れる。また車楽の船二艘を川中に浮べる。この飾りは津島の車楽に似ている。 その他、からくり花火の仕掛けも、所狭しと立てて置かれている。花火は未刻頃からしば〳〵上がり、昼は旗幡のかたちを現して、雲に五色の彩りをなす。やゝ日も暮れ行けば、車楽に挑灯が光り、波上にきらめき、金龍影をうつすが如し。両岸には数千の灯火、月に映じて昼のようである。橋上及び堤上の往来は、肩や跟が当たるほどである。やがて一雷の激するに驚いて空を仰げば、烟花雲中に燃え上がり、月の如く星の如し。そのため、遠近を問わず、老若争い来て、夜の更けることを忘れる。実に今宵の賑合、比べるに物がない。
名に高き此河なみの花火にはむかしの飛火立ちもおよばし 猛彦
川波のきよすにすめる月影をあふげば空にちる花火かな 道直
『狂歌鳩杖集附録』
凉しくも花火の紅葉ながるめり秋もたつたとおもふ川端 長耳
水無月の、十日あまり四日といふ日は、川の瀬の、きよすの里に、玉ちはふ、神祭とて、諸人むれあつまるに、おのれもまかりたり。五條川の兩岸に、花火の筒七八本づゝたてならべ、飛火の野べのむかしも思ひやられて、うべこそ人の出で見るらめ。あやしの家のあねいもとも、けふはよそほひたてゝ、かりそめの垣間見にも、こゝちまどひぬべく、春日の里の物語もかくやとみえて、狩衣の裾もきらまほし。花火はよるひるのたくみありて、雲のあひだに龍とひらめくはたあり、星のはやしに花とちる鳥あり。千間ののびかねたるには、筒ぬしの心もむすぼゝれ、赤雲のたなびけるには、見物の顏も色よし。鳴神ととゞろく筒の音に、たをやめは耳をふさぎ、村雨と下る千筋に、ますら男は眼をとゞむ。ぬば玉のやみの黒玉、あやなき心づかひをさせ、玉鉾の道の片われ、本意なく力をおとすべし。打あげの高きは、帝釋忉利をおどろかし、ほむる聲のひゞきは、金輪奈落をうごかす。ひまなく落つる瀧の火には、文覺も打ちなくによしなく、小花火の紅葉牡丹は、佐國も光のほどなきをやなげくらん。 からくり花火の道成寺の鐘に、岸の蛇籠もうごくかと見え、鯨の作物には、諸舟より聲を合せてとよむ。川中には船の上に高どのをまうけ、今やうめきたるはやしに、波の鼓も聲を合せ、芦の葉も笛や吹くらん。ともしつらねし挑灯、數をつくして波をこがし、いろくづの心をなやます。橋の上の人あししげくして、瀬田のむかでをあざむき、岸の佐受伎つらなりて、山田のをろちもまよひぬべし。げにおもしろの御祭なるかも、たのしの神遊なるかも。
こき交ぜし柳櫻と打ちあぐる花火ぞ夜半のにしきなりける 榛園秋津
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)