飛騨国一之宮とされた時代は八世紀にさかのぼる。

南西約7kmの位山(標高1529m)を御神体とする神社。それとは別に主神を「水」とする考えもあり、宮村史によると水無、ミズナシ、ミナシ、ミヌシから、川の水源を司る神の水主という意もあるそうだ。社前には水無川があり、その下凡そ1500mの砂礫を潜流して、神通川の上流宮川の水が流れる。

伝承が残り、村里が旱魃の時には水無神社の鐘の龍頭に綱をつけて宮川の深淵に沈め、雨ごいの祈りをするのが古来からの習わしであったそうだ。

神仏分離以前は千光寺と兄弟関係があり、千光寺の仁王門は水無神社のものが移されたそうだ。

武振熊命の飛騨討伐下向

飛騨討伐に下向した武振熊命は、美濃から北上し、美濃菅田から渡舟で飛騨に入った。上陸地点は大船渡と呼ばれ、その近くの中津原で八幡大神を祀って戦勝を祈願した。飛騨進撃の守護神として創建された飛騨八幡八社のうち、当社は六つめである。

1.中津原(水無八幡神社)
2.乗政(水無八幡神社)
3.下呂(水無八幡神社)
4.上呂(久津八幡神社)
5.山之口(位山八幡神社)
6.一宮(水無八幡神社)
7.ー石浦(若宮八幡神社)
8.丹生川(相山八幡神社)

この飛騨八幡八社を結ぶ小道は進軍の道であるとされ、後の飛騨古道となった。大化以降駅伝制を備える東山道飛騨支路として飛騨国府への往来に使った。

弘安祈祷

文永十一年(1274)元の兵
が九州に侵攻すると、我が兵は奮戦して撃退し、翌建治元年(1275)使いを斬り、更に軍備を整えて復讐に備える。当時は朝廷幕府挙げて防戦策を講じ、神仏に祈祷して敵国降服を願った。 弘安四年(1281)元兵は再び侵攻した。會〻閏七月晦日(旧暦)夜半の暴風に、四千余艘の敵艦は漂流・沈没し、我が軍はこれに乗じて奇襲すると、四万の敵軍で生きて還った者は僅か三人と伝えられる。神護仏冥際立たしい。奉賽(感謝)の為であろう、九月飛騨國水無神社に洪鐘を鋳造して奉る。水無社鐘銘。

 奉鑄陀鐘一口 飛騨國一宮社
右鑄洪鐘結衆縁 然則上答四恩下資三有 法界衆生倶趣解脱之道 率土群類
同到涅槃之域
 弘安四年(辛巳)九月八日 
大工 沙彌妙蓮
勧進 藤井年守
地頭 朝高
(飛騨國總社考所載)

参考
金山町史編纂委員会『金山町史』(岐阜県下呂市、昭和五〇年刊、平成一七年復刻)75頁
『濃飛古代史の謎 水と犬と鉄』(尾関章、1988年)96-98頁
『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)432、433頁

高山市一之宮町
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