礒野丹波守が築き、六角氏としばしば戦った。織田信長が近江をほぼ平定したのち、丹羽長秀をここに封じた。天正十八年(1590)、豊臣秀吉は石田三成をこの地に封じ十八万石を与えた。慶長五年(1600)、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、井伊直政に命じてこの城を攻めさせ、三成の父・隠岐守および一族・従士はみな戦死した。三成は伊吹山の麓に隠れていたが、のち捕らえられて斬首された。十二月、徳川氏は井伊直政をこの地に封じて十八万石を与えた。慶長九年(1604)、金亀山に◎彦根城を築き、佐和山城を廃した。
初め伊香郡の磯野山に城を築き、ここに拠った。京極氏の代々の家臣であった。永正年中(1504-1521)、伊予守員吉が佐和山に移り、江南(六角氏)の兵を防いだ。その子丹波守員正が継ぎ、のち浅井氏に属した。員正は勇武でよく戦った。六角義賢がしばしば江北を侵略したものの、ついにその志を果たせなかった。員正が要地に拠りその帰路を遮ったためである。
元亀元年(1570)六月、姉川の戦いに員正は先鋒となり野村に陣を置いた。接戦におよび、坂井正尚や池田信輝の陣を破り、進んで羽柴秀吉と戦い、織田信長の本陣近くに迫った。部下が恐れて逃げ出そうとしたが、員正は屈せず。北軍(朝倉・浅井軍)、これを見て援けに来て、員正は再び進撃した。浅井長政が進んで信長に迫ると、員正は精鋭の兵をもってこれを援護した。しかし部下が潰走したため、残兵を収めて佐和山へ帰った。
信長の兵が攻め寄せてきたが、防戦して屈しなかった。信長は百々村や金亀山に砦を築き、丹羽長秀・市橋長勝にこれを守らせた。元亀二年(1571)二月、員正は力尽き降伏を請い、城を明け渡して高島郡へ走った。
天正元年(1573)九月、信長を暗殺しようとした杉谷善住坊を捕らえて信長に送った(◎千草越)。信長は員正に高島の地を与え、大溝城に居城させた。のちに所領を失い、家は途絶えた。
参考
『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)