安八郡中川庄。もとは曽根城があったが、今は華渓寺の地である。
天正四年(1576)、南化玄興が開山。玄興は織田信長の依頼で『安土山記』を書いた。後に妙心寺に昇住し、慶長九年(1604)五月寂。年五七。著書に『虚白集』があり定慧円明国師の号を賜った。
安八郡曽根の城主・西尾氏は、その先祖を籾井兵庫頭光家といって、丹波国の太守・波多野上総介藤原晴通の旗下であった。籾井兵庫頭光家は子細あって三河国幡豆郡西尾という所に住んでいた。これによって郷名を取って氏とした。その子を出羽守信光という。天文(1532-1555)の頃より美濃へ来て多芸郡野口に住み、氏家常陸介友国入道卜全の組下となった。知行三千石。その子を西尾小六光教という。次男は小左衛門吉次といい、三河へ行き徳川家に仕えた。後に隠岐守と号した。小六光教は、引き続き氏家に属し、元亀二年(1571)の伊勢長島(一向一揆)の退き口、太田村七屋敷の戦いにて、武功をあげた。天正二年(1574)の秋より、信長に召し出されて直臣となる。これより西尾与左衛門光教と名乗り引き続き美濃野口に住み、度々の戦いで武功をあげ、信長公御生害(本能寺の変)の後は秀吉に属し、豊後守に任ぜられた。
天正十八年(1590)の三月下旬より、稲葉氏が居住した跡の安八郡曽根の城を賜り、ここに住んだ。知行二万石。この曽根の城主は、稲葉伊予守良通入道一鉄斎で、天文二十一年(1552、壬子)八月に初めてこれを築き居城として以来、天正十八年まで父子共に三十九年にわたり住んでいた。なおこの頃は、稲葉一鉄斎は大野郡◎清水の城に住み、嫡子の右京亮貞通が曽根に住んでいた。
そうしたところ、西尾豊後守は、秀吉が逝去した後は江戸将軍(徳川家康)に従順し、慶長五年(1600)の関ケ原の戦いでは石田三成(以下石田)方に与さなかった。家康公が上杉退治に出た後を追い、大坂から曽根へ来る道で大谷刑部吉継に会い、◎佐和山城へ行って石田に参見して弟の修理亮光国を残し置き、自身は小山の陣へ参じてお供した。関ヶ原の戦いにおいては、大垣城へ家臣の谷清兵衛を人質として入れ置いて城を受け取るなど、度々の勲功があった。
この時、石田は西尾を味方に誘い寄せようとしたものの、応じなかった。そこで石田は、諸士に命を下して曽根の城を攻め取ろうと策を講じ「曽根の城を攻め取らんには、搦手(裏手)の方瀬古村に火を付けなば、城中から駆け出でて動揺する。その隙に乗じて城を乗っ取るべし」と、石田の家臣・林半助重利に命じた。
この半助は、父を林半四郎武利といい、明智左馬助光春の配下の勇士で、身の丈が七尺七寸(約233cm)もある並びなき大力量の持ち主であった。明智光秀が丹波国を征伐した時には、かの国の保月城主・赤井悪右衛門景遠を討ち取ったほどの強勇で、のちに大津八町打出の浜にて恐ろしき戦をして入水した者である。その子半助重利は、明智氏滅亡の後、生国美濃へ帰り池田郡青柳村に住み、百姓のようになって暮らしていた。しかし、元来半助は並外れた力量を持ち、勇猛果敢で鋭く、才知にも優れ、三成の嫡子・石田隼人の乳母の兄であったことから、三成に召し出されて七百石で用いられた。半助は石田に仕えて、白く染めた背中の旗(白きしなひの指物)を掲げて関ヶ原の戦いに出陣し、優れた武功をあげた。特に本多平八郎忠勝と烈しく渡り合い、家康殿にもこれを見られて、「敵ながらも、あの白しなひの剛の強さよ」と賞美されたほどであった。
半助は石田の命を受け、曽根の城を攻め取ろうと思いめぐらしていたが、無二の知己である馬淵兵左衛門尉を誘い込んだ。この馬淵は、元は氏家左京亮の家臣であったが、その頃は浪人となって安八郡呂久村にいた。馬淵は半助の頼みに応じ、友人の高田村の村瀬五郎兵衛と横山多兵衛の二人を誘い、九月十日の申の刻(午後4時)、瀬古村の北にある田んぼに入り様子を窺った。
しかしながら、そこは西尾の領地であったため、稲刈りをしていた者に見咎められ、三人ともに逃げ出し、二人は東の方へ走り落合川を渡って逃げ去っていった。馬淵は曽根を目指して逃げ込んだが、やがて瀬古村の名主・右衛門尉という者の家に駆け込んだ。そこへ西尾光教の長女・青野殿がいたので、馬淵はこれを捕らえて「我を害せば、これを刺し殺さん」と人質に取った。追いかけてきた者もどうすることもできず控えていた。このことが城将の耳に入ると、西尾の侍どもが駆けつけ、様々に偽り宥めすかして、ようやく馬淵を捕らえ、木曽街道の国境に引き出して首をはねた。これによって石田の計略は成らず、西尾方においてはつつがなく落城を免れたのであった。
このように光教は、心を一つにして志を関東(徳川家康)に通じ、石田に与せず、忠義を示したため、徳川殿はその志に感じられ、関ヶ原の乱後、光教に一万石の加増を仰せ付けた。同年十月十日、同国大野郡揖斐の庄三輪村の城を賜わりここに移り、三万石で住んだ。
この揖斐というのは、岡田将監の陣屋があった所である。なお、この揖斐の城は天正十八年(1590)まで稲葉一鐵斎の持城であって、一鐵斎は同郡の◎清水城に住み、揖斐には子息の右京亮貞通が住んでいたが、天正十八年に同国美濃の◎郡上城へと移ったのであった。その後は石川備中守が揖斐に住んだが、◎犬山の城に移った。
また、西尾光教の弟・修理亮光国は、天正十八年(1590)より◎清水の城に住んでいたが、このたび石田方に与したため、その罪によって清水を没収された。けれども、兄の豊後守光教の武功にかんがみて光教の預かりとなり、揖斐に来て蟄居となった。この清水というのは、のちに岡田将監の分知となり陣屋(◎牛洞陣屋)が置かれた場所であって、揖斐より十五、六町(約1.6〜1.7km)ほど東の方にある。
さてまた、曽根の城はその後守将がいなくなったため、慶長十年(1605)の頃より破却されたとのことである。曽根というのは中山道の道筋で、◎美江寺驛から◎赤坂驛の間であり、曽根・北方・三つ屋・弘福寺・青木・池尻は、みなこの間の宿である。
参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)
『新修大垣町史 通史編 一』(大垣市、昭和四十三年)536頁
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より