安八郡曾根は稻葉右京亮貞通が伝領していたが、秀吉の忌諱に触れて、一旦揖斐に退いた。後に(臼杵稲葉家譜作天正十五年-1587)復帰した。天正十六年(1588)四月行幸次第に曾根侍従貞通と見える。この年郡上に移る。後に西尾豊後守光教が、野口より転じて二万石を食む。
曽根城廃城後、華渓寺境内となった。
曽根城主
初め稲葉氏、次いで西尾氏だった。
- 稲葉伊予守良通
一鉄という。当初は土岐氏、のち斉藤氏に属し、西濃三人衆の一人。永禄十年に信長に仕え五万石を領した。天正一一年に秀吉に属したが、不審を買い大野郡清水城に退いたのち許された。同年、大垣城主・池田信輝と所領を争った。天文一四年九月、秀吉から隠居分として西濃で6447貫100文を給せられた。 - 稲葉右京亮貞通
父・良通とともに信長に仕え、天正七年(1575)に曽根城主となる。天正一五年に従五位下侍従に叙任され曽根侍従と称し、翌年に郡上八幡城へ移った。関ヶ原役後は豊後臼杵城に移った。 - 稲葉侍従典通
貞通の子で、母は斎藤道三の娘である。天正十年(1582)に曽根城主となり、天正一三年に豊臣姓をうけて彦六侍従とよばれた。関ヶ原役後は家康に属した。 - 西尾豊後守光教
父・信光の遺領を継ぎ多芸郡野口村に居住し、信長・秀吉に仕えた。天正一六年(1588)曽根城に移り二万石を領す。関ヶ原役では東軍に属し大垣城を攻略、戦後は揖斐城主となった。
華渓寺
天正四年(1576)、南化玄興が開山。玄興は織田信長の依頼で『安土山記』を書いた。後に妙心寺に昇住し、慶長九年(1604)五月寂。年五七。著書に『虚白集』があり定慧円明国師の号を賜った。
参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)26、27頁
『新修大垣町史 通史編 一』(大垣市、昭和四十三年)414、415、536頁