曽根城 華渓寺

稲葉氏

安八郡中川庄。もとは曽根城があったが、今は華渓寺の地である。

曽根城

はじめ稲葉伊予守良通(一鉄と称す)が池田山城より移り居城した。当初は土岐氏、のち斉藤氏に属し、西濃三人衆の一人となった。永禄十年(1567)に信長に仕え五万石を領し、『信長記』に、天正三年(1575)十二月、信長が立ち寄りなさり一献の孫等の能楽、とある。のち天正一一年(1583)より秀吉に属したが、秀吉の不審を買い大野郡清水城に退いたが、のち許された。同年、大垣城主・池田信輝と所領を争った。天正一四年(1586)九月、秀吉から隠居分として西濃で6447貫100文を給せられた。

天正七年(1575)、その子・稲葉右京亮貞通が城主となる。天正十五年(1587)に従五位下侍従に叙任され「曽根侍従」と称し、翌天正十六年(1588)、郡上八幡城へ移った。関ヶ原役後は豊後臼杵城に移った。
天正十年(1582)、その子・稲葉侍従典通が城に入った。母は斎藤道三の娘である。天正十三年(1586)に豊臣姓をうけて彦六侍従とよばれた。関ヶ原役後は家康に属した。

稲葉氏が郡上に移ったのち、天正十六年(1588)西尾豊後守光教が稲葉城に入った。二万石。光教は、父・信光の遺領を継ぎ多芸郡野口村に居住し、信長・秀吉に仕えていた。関ヶ原役では東軍に属し大垣城を攻略した。慶長五年(1600)冬までここに居城し、揖斐城に移った。

華渓寺

天正四年(1576)、南化玄興が開山。玄興は織田信長の依頼で『安土山記』を書いた。後に妙心寺に昇住し、慶長九年(1604)五月寂。年五七。著書に『虚白集』があり定慧円明国師の号を賜った。

参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)26、27頁
『新修大垣町史 通史編 一』(大垣市、昭和四十三年)414、415、536頁