天神社は「定七宮」を合祀している。定七宮は、もとは中野渡から六、七丁上った所に松林があって、その中にあった小さな祠である。『朝日村誌稿』(昭和三十年頃、著者不詳)によると人柱の逸話がある。
天正から慶長にかけては時々堤防が切れ、またそののち、慶安のころにも堤防が切れた。そのいつの時であったか、はっきりしないが、この地に定七という人がいた。工事が難儀で堤防がなかなか修理出来ないので人柱を立てることになった。一人身で係類がない人から選ばれて、人柱となって堤防の工事が完成した。時の人が憐れんでその場所に社を建てて定七宮と呼ぶこととなったが、その後、そこで堤防が切れなくなったという。
『尾西市史』では、奉行の伊奈氏の方から人柱一名の調達を厳命され、村側から身分の低い者を指名したのではないかと推測している。
参考
尾西市史編さん委員会『尾西市史 通史編 上巻』(尾西市役所、平成10年)