金森氏 越前から高山へ

織田信長の家臣・金森長近は長篠の戦や越前一向一揆で功を挙げ越前大野城主となった。本能寺の変後、飛騨の三木自綱が信長への恩義から秀吉に従わなかったため、長近は秀吉の命で討った。天正14年(1586)越前より飛騨へ移封され三万三千石を賜った。高山城築城や、大谷派別院照蓮寺を中野より高山に移すなど城下町の整備にも尽力した。慶長十三年(1608)長近が没すると、飛騨は養子・可重に、美濃上有地と河内の金田等の領地は実子・長光に与えられ、可重は高山城に移り住んだ。

3代重頼は家臣茂住宗貞をして国内の地理を調査させたり、神岡鉱山や茂住鉱山の発掘経営をせしめた。

幕府直轄「天領」

6代頼峕は素行に問題があり、又苛政を行ったがために幕府の好むところとなくなった。また、金森六代の飛騨は豊富な山林資源や地下資源(神岡の銀山、白川郷の煙硝)を有しており窮乏した幕府が関心を持ち、元禄5年(1692)6代金森頼峕を出羽上ノ山に移封し幕領となった。元禄五年七月に幕府直轄領となり、八月十八日に関東郡代伊奈半十郎忠篤が飛州代官兼務を命ぜられた。十月、金森家の向屋敷を高山陣屋と定めた。

明治維新に至るまで176年間、25代にわたり代官・郡代が派遣され幕府の直轄支配が続いた。

元禄検知

金森時代の石高を是正するため、幕府は新たな総検地を命じた。大垣藩主戸田釆女正のもと、大垣藩小原仁兵衛を総奉行として任にあたった。総勢200余人の係の者が、飛騨に逗留すること2年を費やし、山間の避地に至るまで入念な縄入れを行い、検知を行った。その結果『元禄検知水帳』が作成された。

年貢は、金森時代は米納であったが、徳川幕府領となった元禄以後から次第に金納となった。飛騨が山地で耕地が狭小であり、高山陣屋までの輸送も困難であった為、金納による特例が行われた。飛騨国内で年貢の一部を正米で徴収したのは、414ヵ村の内、高山より三里以内で田が多い83ヵ村であった。

御林山

高山陣屋では飛騨山の山林管理等の政務を担った。金森氏の林業経営方針を踏襲し、金森氏旧臣の84人を地役人に採用し、その内28人を山林管理のための山廻や、白木改、御榑木改にあたらせた。

御嶽・乗鞍山麓を南方元伐場、大野郡川上・白川・吉城郡高原地方を北方元伐場とし、山方民に金穀を与えて伐採(元伐-もとぎり)させた。

宝永元年(1704)幕府は出材経費節減のため、南方御用木一式を江戸町人に請負わせた。元伐によって生計を立てていた小坂・阿多野両郷の村民は死活問題として請願した。翌年、幕府は材木のみを江戸町人・冬木屋小平治らに請負わせ、両郷へは毎年榑木60万挺の伐出を許可した。

10年後の正徳三年(1713)、冬木屋らの請負年季継続を阻止しようと、両郷の山方民は代表を江戸に送り、老中秋元但馬守へ駕籠訴に至った。幕府も両郷の窮状を認め、冬木屋らの年季継続を許可せず、材木・榑木とも元伐は両郷に稼がせることとなった。

しかし、明和八年(1771)十月に至って、御料林が乱伐で木材の品質が低下し収支が合わなくなり、代官大原彦四郎は幕命を奉じ元伐を停止するに至った。山方民は度々請願に江戸へ向かうも幕府に聞届けられなかったが、休山の償いとして小坂・阿多野両郷48ヵ村に限り安石代の買請米として年々3400石を払い下げることとした(山方米)。

梅村騒動

慶応三年(1867)十月三日、徳川幕府は大政奉還した。翌慶応四年正月九日、京都に東山道鎮撫総督が置かれ、竹沢寛三郎が鎮撫使先発として飛騨入国の報があるや高山陣屋で郡代以下属僚一同が、幕府方か朝廷方か決するにあたり、多数の地役人が朝廷方への帰順説に賛同し、郡代の新見は徳川と生死を共にするのが恩義に報いる手段として、二十五日夜陰に乗じ逃げるようにして野麦峠越えに東上した。

郡代が東上すると、郡上青山藩士多数が飛騨一円支配に乗込むとの風評があり、人心が騒いだ。これは安永年中に郡代大原彦四郎が隣国諸藩に一揆鎮圧の為助けをよび、郡上青山家が差し向けた家士が百姓へ発砲。打殺しし、飛騨国民に遺恨が残っていたからであった。二月四日、竹沢一行が高山陣屋に入り、尾張藩士・郡上藩士もそれぞれ高山に到着し、寺院その他を宿舎とした。七日には陣屋前に「天朝御用所」の高札を立て、朝廷直接の御支配となった旨布告した。その後、総督府の命により郡上藩士は二月十八日に、尾張藩士は三月十三日に高山から退去した。

参考 
小坂町誌編集委員会『岐阜県小坂町誌』(小坂町長・中島真之、昭和40年)104、105、117、118、155、210、211、260、261頁
高山市史

高山市八軒町丁目