宿の人馬は二十五人、二十五匹(『寛永元年 [1624] 道中奉行申渡』)。このうち、馬五匹と人足四人ずつを毎日待機していた。
賃銭は、上り(大湫へ三里半)が人夫一人につき九十文、馬一匹につき百八十五文であった。問屋場は一箇所で、荷物を一時保管する荷附小屋はなかった。庄屋が利三郎と彌左衛門の二人、組頭は與市と友八、年寄役は次郎左衛門と清右衞門の二人であった。また、本陣は茂右衞門、問屋は善右衞門が務めていた。
当驛の村高は874石4斗6升2合で、そのうち伝馬銀(元禄八年 [1695] より)と堤銀(寛永十六年 [1639] より)の納付を免除されていた。これは、中山道の伝馬の他に、木曽山から出る木工品(木具征)の伝馬を多く務めていたためである。また、尾張藩から御救金三十両を支給され、給料が問屋二人に金五両ずつ、年寄三人に給米四石八斗ずつ、帳付一人に給米二石、馬指一人に給米二石、定使一人に給米二石が支給されていた。
助郷は『元禄七年 [1694] 改定證』の文面に石高1万1,206石であった。
中山道はこの驛まで、信州辺りからの牛に荷を積んだ「牛荷物」も多く通り、往還はたいへん賑わっていた。この先の中野村槇ケ根で下街道が分かれる。驛中の旅籠屋は五十戸ほどであった。(『徇行記』)
大井橋は板橋で、西側が九間(約16m)、東側が八間(約14.5m)、中間の幅が四間(約7.2m)、長さが一間(約1.8m)であった。先年の本橋は享保十三年(1723)の洪水で落ち、その後仮橋を設け、延享二年(1745)から元のような本橋が出来た。(『古義』)その後も寶暦五年・六年・七年(1755・1756・1757)と度々にわたって橋の修繕が行われた。大井町古山家文書に云う、
寶暦七年三月廿七日御普請初る。晦日迄に假橋出来、五月四日滿水にて右假橋落流候。此節松平安芸守様御登、五月四日晩中津川泊、川留にて五日六日兩夜消害に御逗留被成候。脇橋二日一夜に出來。云々
(:宝暦七年(1757)三月二七日に橋の普請が始まる。月末までに仮橋が出来たが、五月四日の大洪水によってその仮橋が流されてしまった。この折、松平安芸守様が江戸へ向かうため登ってこられ、五月四日の晩に中津川で泊まったが、増水によって川止めとなったため、五日・六日は当宿に逗留した。脇の橋が二日一晩で出来、云々
絵図『木曾街道六十九次圖繪』には、この宿を雪景で描き、旅客の二・三人が点々とある。物寂しい冬の山驛の楼がうかがわれる。
参考
『恵那郡誌』(恵那郡教育会、大正十五年-1926)321・322頁