揖斐川の川湊で最も上流に位置する。舟は当初久瀬村樫原までのぼってきたが、のちに藤橋村横山まで上るようになった。慶安四年(1651)の美濃一国絵図には「いひ川の中に此北方より上へ舟のぼらず」と記されているが、近世後期には北山筋の木炭生産が増加し、輸送量も大きくなったため、急流を遡って大量輸送を行うようになった。そのほか、まゆや茶も積まれ、時に急用の人も同乗したが、危険な航路で旅客輸送には向かなかった。桑名からの上り舟には米や干魚、簡単な副食や調味料が積まれていた。

明治中期には車道ができて荷車輸送が始まり、大正期の道路拡幅で荷馬車が導入されると川運は次第に衰え、昭和十五年の西平ダム完成で舟運は終わった。

湊での作業

舟は早朝四時半にのぼってくる。舟には細く丈夫な「舟づる」を五本ほど取り付け、その先を持って川岸から引き上げる作業は重労働であった。横山につくと船頭は舟べりをたたいて到着を知らせ、決められた宿で立ったまま一升だきほどの弁当を梅干しや漬物でさらさらと流し込んだ。そしてすぐに木炭を船積みし、八貫目(約30kg)の炭俵を二俵ずつ肩に担いで運び、一艘に約五十俵を詰め込んだ。倉庫番や荷主、舟主の手続きも同所で行われた。

船積みされた木炭は午前中の風が弱いうちに森前まで下っていく。ここまでは急流で舟が破れることもあり、木炭が流れたり、船頭が水死することもあった。森前から桑名までは比較的楽で、こうして北山の木炭は桑名を経て名古屋で使われた。

参考
『久瀬村誌』(揖斐郡久瀬村、昭和48年)284、285頁
『揖斐川』(揖斐郡教育会、昭和五十四年)73-75頁

揖斐郡揖斐川町
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