十七條城

正中の変で落ち延びた土岐氏

※詳細な場所は不明

本巣郡船木庄。

城の草創

本巣郡十七条の城は、土岐伯耆守頼貞(入道存孝)の八男・土岐八郎頼胤が、暦応二年(1339、己卯)八月に初めて改築してここに住んだ。建武三年(1336、丙子)正月に草創したともいわれる。頼胤はのちに、同郡穂積に移り住んだ。故に穂積九郎といった。

これより先、暦応元年(1338)正月十六日、奥州の国司・北畠中納言顕家が上洛した時、土岐頼遠とともに迎え撃ったものの重傷を負い、自らの城に引き取り帰ったというのは、この要害のことである。また、頼胤は土岐伯耆十郎頼貞の四男で、後醍醐天皇の倒幕計画、╱正中の変に参加し、のちに舟木次郎といったともいう。同年(1338)五月十一日没す。法名、秀山道殿。大日山美江寺の過去帳に見える。

「武藤」氏

頼胤の亡き後、幼少の子があった。家臣・松田某が養育して、十七条に住まわせた。成長して武藤次郎頼実と名乗り、近江の塩津の合戦で大軍を引き受け武勇を顕わしたことは、広く知られている。一説に、土岐氏の庶流に舟木氏はあるが武藤と名乗ったこともあったというものもあるが、その由来は分からない。頼胤の子であれば、清和源氏の後裔だろう。塩津の合戦には「武藤次郎藤原頼実討死」とある。しかし、頼胤の妻は武藤氏の娘であり、母方の氏姓を名乗ったか、ともいわれる。

その子に武藤七郎と八左衛門と二人いたが、一城を守るほどの器量もなく、武勇で名を馳せることもなかった。後々、どこの国へ行ったか、その行方も分からない。ただし、近江の山県郡笹賀村に、七条氏の者が二、三軒ある。その先祖を聞くに、本巣郡十七条の城主・武藤の末裔であるという。また秋田城介実季の家に、その子孫がいるともいう。

城の断絶

さて頼実が討ち死にしたのち、十七条の要害は二階堂三蔵とその子・安右衛門尉が領し、続いて仙石権左衛門尉秀豊が住んだ。嘉吉二(1442、戌)年十一月十七日病死、法名雪峰院道寛。そののち、和田五郎兵衛利詮が住み、享禄(1528-1531)の頃より林駿河守政長(あるいは通政、正長ともいう)、その子・玄蕃長正(幼名市助)、次男・林宗兵衛正三が住んだ。

政長は、元亀三(1572、申)年十月二十五日に没す。法名は前駿州太守月郎宗白大居士。嫡子の玄蕃は、甲州の武田信玄の軍勢が乱入して夜合戦となった時に討ち死にした。宗兵衛は落ち延びた。

一説には林佐渡守正三が◎高須に居城したともいわれるが、明らかでない。正三の子は、のちに稲葉一鐵の庶子である稲葉兵庫頭重通の養子となり、家督を継いだ稲葉佐渡守正成である。

その後、当城は断絶した。

参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)

瑞穂市十八条20番地
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