山那村砂原と前渡村小山を結ぶ、川幅八〇間の渡し。

往古より九瀬の渡(太炊、鵜沼、気瀬、摩免戸(大豆途)、板橋、食、薭島、市河前、墨俣)の一つであった。古くは承久の乱(1221)に「官軍尾張河沿岸に陣をしき賊軍に備えたり。云々。両軍大井戸、摩豆戸等に戦い官軍敗走す」(吾妻鏡)とある。東軍の本隊の置かれたのが摩免戸で、それより上流の伊木山の下の大伊木のあたりで東軍の土岐光行が陣を構えた。また江戸時代に「北山那から美濃の国前途村に至る」(尾張名所図絵)と記されている。

この渡場から北山那、南山名を通り、斎藤、柏森、大口町の与野を経て、小牧へ通ずる重要な道路があった。この道路は柏森で旧柳街道と交叉している。橋一つない尾張と美濃を結ぶ道路は、渡船による以外に方法はなく、小淵の渡となって次第に人馬の往来がしげくなり、明治44年3月には岡田式の渡船場として活躍してきた。

明治十五年の渡し賃は、一人、人力車一台、馬車荷車一台・牛・馬一頭、かご長持一荷で五厘。両掛一荷分持で二厘。

大正末期には、鉄道の発達や架橋の進展に伴って閉鎖された。さらに宮田用水の水路工事のために、渡船場は跡形もなくなり、わずか堤防からの「下り道」と高札が昔を物語っている。

参考:
岐南町『岐南町史』(岐南町、昭和59年)135-139頁
『くさの井史』

丹羽郡扶桑町山那宮東
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