最盛期に五十坊あったと伝えるが、現在は六坊である。学頭を悉地院という。三修が開基した。

弥高寺跡は、弥高集落の北東、伊吹山頂から南へ延びる尾根上に位置し、郭状の遺構郡は県指定の史跡となっている。本坊跡までには五十五の坊跡や、石積の痕跡を示す大門跡等があり、本坊跡周辺では役行者像を安置した石室がある人定窟、石仏・石塔が散在する墓地跡、池跡、行者谷などが散在し、修験の性格を示している。

明応八年(1499)正月失火により堂舎が焼失し再建されたが、永正九年(1512)六月兵火のため焼失し、以後衰退した。現在は山麓の悉地院と安養院がその法灯を伝えている。

護国寺

深草聖皇の頃(仁明天皇在位833-850)に、伊吹山に一精舎が建立され、薬師念仏を修行が行われた。任寿年間(851-854)には三修が来山し、それ以降、堂舎も複数建てられるようになった。伊吹山は当時、比叡山、金峯山などと共に七高山の一つに数えられており、三修が来山した。三修は朝廷に申請し、定額寺に列せられた。定額寺に指定されると、年間五百~千束の稲が支給され、その稲を出拳して得られた利稲が寺院の運営費に充てられた。(『日本三代実録』元慶二年(876)二月十三日条)

江戸時代の地誌『近江輿地志略』によれば、宝亀年中に三銖沙門安祥上人が天皇の勅願によって伊吹山に四個の梵刹が建立したと記されている。この安祥上人は、体重が三朱しかなく、通力自在によって「飛行上人」とも呼ばれた。また、皇后の病悩を平癒させた行者でもあった。彼の門下には、安祥房、道鏡、名越(超)童子、松尾童子、敏満童子らが名を連ね、松尾童子は伊吹山二合目にある松尾寺の開基とされる。これらの様相からみて、伊吹山麓に展開した仏教寺院は修験の色合いを強く帯びていた。すなわち中世の伊吹山は女人結界の霊山であり、行導石や伊吹滝等の行場を有する修験の山であった。山頂には石像の彌勒を安置する石室や、石製の宝塔、経塚が存在したとされる。

平安時代後期になると、弥高、観音、太平、長尾の伊吹山四護国寺へと発展した。

参考:伊吹町史編さん委員会『伊吹町史 通史編 上』(伊吹町、平成九年)147-151頁

米原市上野
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