上條村の人。『群書類從』の小野氏系圖に、敏達天皇七代の孫にあたる参議・小野峯守の長男で筑前守葛絃の子と、『麒麟抄』に、道風は尾張國上條で生まれ、右京大夫葛絃の子息という。嫡子道風、次男元風、三男伊風、女子一人あり。何れも手書に優れ、その中の道風が第一云々としるす。同書附録〕に、道風は寛平五年(893)に誕生し、村上天皇康保三年(966)十一月に七十一歳で没す。従四位上木工頭内蔵頭と見える。性格は性敏で、書に優れ、日本三跡の一つとなる。醍醐天皇の時に、勅を奉り紫宸殿の障子に題字し、天下に名をなす。
ある時、道風と朝綱と書の優劣を論じ、両人は議して、主上の御判を賜り、互いに勝劣を決すべしとて、御判を願うと、主上は朝綱の書が道風に劣る事は、道風が朝綱の才に劣ることと同じと仰せられたことが『江談』に見える。『好古小録』に、道風が朝臣白居易の詩を写した模本一巻がみえる。絶妙で二王の体を得て実に珍しい。真筆はどこにあるのだろう。道澄寺の鐘銘は、今は大和国宇知郡榮山寺にあると、古今の碑銘その右に出るものを見ず。また『遊絲連綿草』、余人どうして企てるだろうか。実に良書というべきである。世に残る真蹟拓本で信用出来ない物は多く、下馬札の書、道風に始ると云う俗説、ならびに書記した書もある。無稽の言なり。下馬の札は後世の制だとかき、『安幾破起帖』というのは道風の假名で、『群書一覽』に、帖の眞本府下の清光院に所属する。小野内蔵頭道風の書であると伝わる。明徴でいて、筆法の妙、高く二王を攀づ。卓に絶倫なし。舊傳葢訛らざるなりと見えたり。『扶桑略記』には真蹟が唐国へ渡りなさったことを載せ、『王勝問』には、安元二年(1176)太上天皇五十の御賀に、道風が書いた『古今集』を、中宮の御方より奉らせなさった事をしるす。
また図も妙手で、『皇朝名畫拾彙』に、多武峯護國院が所属する大職冠の神像、高野山小坂房にある勢至の像、并道風が描いたとしるせる。『集古十種』に真蹟の扁額數品を出す。今はこれを略す。後に神に祀り、山城國葛野郡小野荘松坂村にある
『大日本史』によれば、以下の文章をお願いします。
道風は書に優れ、遒勁神逸、古今に抜きん出ている。醍醐・朱雀・村上三朝に仕え、正四位下内蔵権頭に至る。『系図扶桑略記』
醍醐帝はその書を最愛し、醍醐寺を造る際、道風に扁額や楷書・草書を書かせる。初めは楷書を南門に掲げようとし、道風は大いに喜び、我の得意は草書に在りと。『著聞集』
また命じて行草法帖各一巻を書かせる。僧寛建を伴わせ唐に往かせ、その書の美を異邦で広めようとした。『略記』
殿壁の題字、宮門の扁榜、道風が書いたものは甚だ多い。『紀略』『略記』
晩に中風を患い、手が震えて書いたものは奇妙な趣きが生じた。『著聞集』
また、橘直幹の為に奏疏を書く。村上帝は常に坐側に置いて、宮中が燃えた際、帝は左右を顧て、直幹の疏は無事かと問い、他を問わなかった。『十訓抄』『著聞集』『寶物集』
その書は一行隻字まで人は競て求めた。得ていない者は恥とし、その世に貴ばれた。『今鏡』
後世、道風と藤原佐理藤原行成與を称して三跡という。『系図』
とあるように、この朝臣の能書が高名な事は、数百部の古書に出ているので、略す。 文化十三年(1816)五月、この村の隣村松河戸村八幡社の境内に、遺址の碑が建つ。銘文は多いので略す。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)