光運寺に隣接する。
敏達天皇(538-585)の皇后広姫息長陵墓指定地とその付属地として宮内庁の管理となっている。皇后広姫は、この地方の豪族であった息長真手王の娘で、敏達天皇四年に入内して二男二女を産せられ、後年この地において崩せられたといわれている。『延喜式』諸陵寮によると、元禄九年(1696)に光運寺の本堂改築で開墾中に、石室の一部と思われる石材と家形石棺の蓋が発見された。「息長墓舒明天皇之祖母、名曰広姫、在近江国坂田郡、兆域東西一町、守戸三烟。」の記事による。
明治五年の現地調査の時の古図の模写「息長陵発掘物」によると、家形石棺の蓋は、天井部に平坦面はなく一条の稜線で記され、四基の縄突突起が天井部の傾斜面に斜め上を向いて描かれている。大きさは長さ約2.2m、幅約1.1m、高さ約0.5mである。
その後、光運寺本堂西側に面した基壇の石垣が改修された際に多数の埴輪が出土した。形状から五世紀末頃から六世紀初めのものと推測されている。『山東町史』は、本堂の基壇が墳丘の一部であると推測している。本堂の南側には、付属地となっている高さ約3mの一基の古墳があり、本堂のものを主墳とした陪家と考えられている(『坂田郡山東町内遺跡詳細分布調査報告書』)。『北近江の遺跡』によれば付属地の古墳を後円部として、一部の石室及び家形石棺のところを前方部とみて、前方後円墳である可能性を指摘している。
参考:山東町史編さん委員会『山東町史』(山東町、平成三年)16-19頁