熱田の神のみそなわす、七里の渡し浪ゆたかにして来往の渡船難なく、桑名につきたるよろこびのあまり、名物の焼蛤に酒くみかわして・・・
『東海道中膝栗毛』で十九舎一九の一節。桑名の焼ハマグリとして知られている。
『「七里の渡し」考』の著者、野田千平は、名古屋市鶴舞図書館所蔵の「熱田より桑名迄 海上絵図」に描かれている航路を参考に、推察している。
七里渡は二航路あり、沖回り(外回り)の航路は9~10里(約36~40km)で陸寄り(内回り)が七里(約28km)である。
桑名から桑名川(現揖斐川)を下り長良川河口堰付近の「十万山」を横に見て下り、福吉(現長島町内で長良川左岸)からいまは埋め立てられた「青鷺川」に入り、国道13号の木曽川大橋右岸に出る。木曽川を渡り、対岸の木曽岬村内の「白鷺川」に入り鍋田川(野田説によれば筏川を鍋田川と推定)に出る。ここで対岸の弥富町鍋田干拓地内の「早川」に入った後に海に出る。海に出た船は、砂洲の間を抜け日光川、庄内川を通り抜け、現在の堀川を上って内田橋近くの常夜灯に着く。
外回りの航路は、「早川」から出た後、砂洲や浅いところを避けて大きく各河口を迂回して航行していた。
七里渡は明治5年(1872)に廃止され、東海道が陸路として整備され始めた。
桑名が港町として文献に現れたのは問丸で、日本三十三港問丸の一つに数えられている。問丸は荘園の貢献米の海運や、保管、販売を担う荘官で、土地の富豪がその役を果たした。後に取扱商品で分化し、近世には海運・陸運問屋・仲買でも分化した。
問屋以前には海運をつかさどる津屋というのあり、例えば天武天皇を熱田宮宿に御渡した桑名の船頭大藤内も津屋の一つであっただろう。桑名の旧町名に吉津屋(四ツ屋)七ツ屋等が残り、古い臼つき唄には「酒は酒屋に、良い茶は茶屋に、女郎は桑名の七ツ屋に、行きは新町、戻りは四ツ屋、ここで泊ろか七ツ屋に」と歌い継がれている。
桑名は鈴鹿山脈を越えて近江へ抜け、揖斐・長良・木曽川をさかのぼり美濃路や、木曽路を通じて北陸・信濃方面へ繋がり、海路は尾張や紀伊へ直結する要衝であり、港町として発展していった。附近の封建領主は桑名に上代を徴収しようと征伐を試みると、桑名衆は逃散(他領へ逃亡)して抵抗し、朝廷や寺社への貢納米が滞った。外宮が交渉し落着すると桑名衆は戻って、港が再開し、その意気軒昂ぶりを示した。
また、桑名では楽市も行われ、天文十八年ー天正二年頃まで「十楽の津」と呼ばれた。取引商品は主に以下のものである。
1.米:主要商品として、大正中期まで米穀取引所が存在した。
2.木材:今日でも、船場、清水町辺りに材木屋が集積している。
3.油:エゴマ、近世には種油が取引された。
4.海産物:蛤や白魚等河海の地場品に加え、米や油を積んで紀州に行き海産物を帰りに積んでくる「買廻り」もあった。
5.鋳物:桑名は町屋千子伝説があり、村正の名刀匠を出しただけあり古来より鋳物の名産地である。
6.木地挽物:近江の木地屋が伝えたもので、旧七和村地区には稚子ヶ谷という小字があり、木地屋の根拠地であったらしい。桑名盆が名産。
7.瀬戸物五器類。
8.員弁郡治田鉱山産出の銀銅で、天和二年迄ここに銀山奉行が駐在し支配していた。
参考
木曽川文化研究会『木曽川の水と尾張地域』(稲垣喜代志、2004年)73-75頁
近藤杢、平岡潤『桑名市史 本編』(桑名市教育委員会、昭和34年発行・昭和62年三版)93-100頁