※正確な場所は不明、吉里から旧吉里小学校に著す。
地頭補任は、平時の鎌倉幕府の重要な行政事務の一つだった。その例として、今の海津郡吉里
村平原の内の、郡戸庄成田についてである。地頭職並びに預所として中原氏(水谷後家)を任命する状に云う
將軍家政所下 美濃國郡戸預成田郷住人
可早以中原氏(號名越女房)爲預所地頭兩職事
右任亡父前大隔守親貞文應元年八月二十七日讓状(子細載之)爲彼職、守先例可致沙汰之状、所仰如件、以下
弘長元年(1261)九月三日
案主 菅野
知家事 清原
令左衞門尉藤原
別當相模守平朝臣 花押(北條政時)
武藏守平朝臣 花押(北條長時)
後に弘長三年(1263)二月十七日、中原氏は嫡子つきしねまろに讓る。こうして数年を経て、幕府月米丸を両職に任命する。
可令早月米丸領知美濃郡戸庄内成田郷預所地頭兩職事
右任亡母中原氏弘長三年二月十七日譲状、可令領掌之状、依鎌倉殿仰、下知如件
文永六年十二月十九日
相模守平朝臣 花押(時宗)
左京權大夫平朝臣 花押(政村)
中原氏並びに月米丸は同所の預所及び地頭職としての両方の収入を得た。これは水谷氏にて、元弘建武の際(1333〜1336年頃、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し[元弘の乱]、公家中心の政治[建武の新政]を樹立したが武士が反発して足利尊氏の挙兵により崩壊)に足利氏に従って行動しその所帯を相伝した。(『備前池田文書』)
参考:『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)430、431頁