土岐守護家八代成頼が当社で剃髪し、守護を嫡男政房にゆずった。

応仁の乱では、守護・土岐成頼が京都へ兵を率い、守護代斎藤妙椿が美濃衆を固めた。文明九年(1477)、成頼が首領・足利義視父子を伴って帰国すると、足利義政は妙椿の弟利藤を利用して土岐家を弱めようとした。文明一二年、妙椿の病死後すぐに、妙椿の子・利国と伯父・利藤が争い、守護成頼は利国を、将軍家は利藤を助け、近江守護京極・六角氏もそれぞれ加勢したが、最終的に利藤が敗れた。

明応三年(1494)、斎藤利国が郡上郡に建てた大宝寺の開堂に臨席しようとした処、利光が利国を襲撃しようと企てた。この意図を察知し利国は出席を中止し、困った利光は居城船田から利国の加納城を襲おうとして、両軍が対峙した。守護より調停が行われ収まったが、翌四年より戦いが始まった。成頼の後継争いが起因である。嫡男・政房は守護代斎藤利国が補佐されていたが、成頼は末子・元頼に嗣がせたいと望み、小守護代・石丸利光に補佐を密かに頼んだ。利光は斎藤妙椿に挙用され戦功を立て、行政を握り、一八郷を併呑しようと狙っていたため、この機会に執権斎藤の支配から抜け出す好機とし、美濃の応仁の乱、船田合戦が始まる。

守護代斎藤利国は七月一日、西郡(現大野郡高春)の吉田氏を討ち、これを知った利光は千余人を遣わして救おうとし、利国は援軍三千余人を送った。両軍は中野で開戦し、激しい雷雨にたたかれ、雹まで降る悪天候の中利光の軍勢は敗れ、七日舟田城の東北で首が晒された。部隊の気力がそがれたことを悟った利光は、自ら舟田城を焼き、元頼と共に遠く六角氏をたより近江へ逃れた。守護土岐成頼は嫡男・政房に家督を譲り、府城革手を離れ、安国寺で剃髪して宗安を名乗り、城田(長良川の北の現岐阜市城田寺)に遁った。

しかし城田の館をめぐって船田の乱は再発し、翌明応五年石丸利光は土岐元頼をおしたて、津島から兵四千を率いて城田に着陣した。これに対し守護・土岐政房は自ら長良川岸まで出陣し、二万の部隊で城田館を包囲し、その輪を次第にちじめていった。五月一六日には土居が落ち、二七日に包囲軍は打越山へ攻め登ったが、二千余人が討死した(『船田後記』)。

やがて斎藤利国は石丸利光を援けた六角氏を報復しに、同年十一月に近江に出兵したが、子の利親とともに討死にした。前守護・成頼は翌明応六年四月死んだ。

参考:『池田町史 通史編』(岐阜県揖斐郡池田町、昭和五十三年)212-215頁

揖斐郡池田町小寺
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