石田三成が徳川家康を討とうとしている情報を得た本願寺の教如は、家康に連絡するため関東へ下向しようとしたという。なお教如の弟、准如は豊臣方に属した。

教如は途中で三成方の伏兵を避ける必要に迫られ、安八郡の一向宗の門徒集団(のちに土手組とよばれる)に保護され逃れた。土手組の信徒は足近の西方寺から教如を迎え、森部の光顕寺に匿った。さらに土手組を構成する一五ヵ村から八二人の強い信徒を選び、教如を守護して再び上京した。

光顕寺出発後、まず小野の専勝寺で休息し、ついで草道島の西円寺にも立ち寄ってから、春日谷の奥へと避難した。この間、西円寺の住職・賢秀が教如の身代りとなって討ち死にし、土手組の随伴する者たちも京都へ戻るまでに一八名の戦死者を出した。

関ヶ原役後、教如は東本願寺をはじめた。慶長十年十月には守護した十五ヵ村の信徒に対して、土手組の名称と本山直参を許可した。あわせて本尊と教如寿像を下附し、感謝の意を次のように述べている。
先般其方供依蔭、苦九死一生難候事、厚情難忘、京登之節、聊無差支着

参考:『安八町史 通史編』(安八町、昭和五十年)47、48頁

安八郡安八町
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