方県郡。◎河渡の宿驛の北にある。古は「江渡」と書く。城の遺構、碑は無い。
井戸十郎が、初めて城を築き、三百貫を領知した。
その後、伊賀伊賀守守就(のち安藤と改める)が隠居してここに居住した。後に道足、道息、道則と号した。
土岐頼藝から斎藤三代、信長以後までここに居住したが、その子・安藤伊賀守尚就、天正八年(1580)に信長の不審を被り、領地は没収された。信長に不審をかけられたのは、密かに甲州の武田に通じたという説が有る。守就・尚就父子は武義郡谷口村に隠棲した。谷口の改田傳右衛門の妻は守就の妹であるため、そこに身を寄せたのである。
天正十年(1582)、本能寺の変を機に父子は再起を図ったが、◎北方の要害にて、稲葉一鐵により一族は戦死した。
河渡の城主であった安藤日向守藤原守龍は、後に伊賀守と号し、入道(出家)して道足といった。天正の始め、心変わりして武田信玄に内通した。信長は大いに怒り、攻め亡ぼす支度をした。これにより、河渡の城を立り退き、北山に身を隠した。
その後、信長父子が京都本能寺にて生害の後に、本巣郡北方に要害の地を構えて立て籠もっていた。稲葉一鐵、同右京亮は宮田村に要害を構えて出陣した。道足の重臣の稲葉長右衞門本田村の要害にあってこれを攻めた。見延村の城からも原掃部亮が背後からさしはさみ攻める。天正十年(1582)六月七日の宵から八日の朝まで、息もつかず責め戦う。道足はついに敗れ、嫡子伊賀守、二男七郎左衛門尉、伊賀守の嫡子忠次郎、道足の舍弟埼蔵主の父子兄弟五人と家人二十四人が討ち死にした。五人の位牌は美濃谷口の汾陽寺に有る。先に述べた北山での蟄居がどの場所であったかは定かでない。
守重は山内対馬守一豊(松平土佐守の先祖)の姉聟だったため、道足の二男・七郎左衛門の子を一豊が扶持(養育)した。これは土佐の山内靱負の先祖である。すなわち伊賀守が討ち死にした時に幼少の子がおり、その後は高屋氏の家で生長し、松平土佐守の先祖の靱負亮実通ということである。
山内氏は天文の頃、方県郡木田、厚見郡市橋西ノ庄の領主で木田に居住していた。 はじめは山県郡大桑に居住し、いずれの地も土岐氏の傘下(幕下)である。上記の山内氏の屋敷の跡は大桑の辺りに有るといわれている。一豊の父は山内傳兵衛尉盛豊といい、各務郡の内で蟄居していた。 天文の頃に美濃國を出て尾州へ赴き、織田備後守信秀の幕下となり弘治年中(1555-1558)に討ち死にした。土佐では、尾州黒田の城主という。山内氏は美濃、尾張の戦いにおいては、いづれの戦も功があったとはみえない。実通の子孫や、伝兵衛(盛豊)等一家の末は詳らかでない。
井戸十郎は奥州の生まれである。当城を造立し、信長卿の幕下として二十四年居住した。信長が逝去の後は何方えも仕えず、籠居した。郡上郡下田の城主であった稲葉彦六長通(入道一鐵)は秀吉公に属して曽根の城に出張し、河渡の城を攻め取った。稲葉一鐵の嫡子右京亮、二男彦六、三男右近、四男の勘右衛門の四人を河渡城に置いて、我が身は曽根に居住した。秀吉公逝去の後は大神君(徳川家康)に帰順し、豊後國(現大分県)臼杵の城を賜わり住んだ。一鐵は美濃大野郡清水の長良山に葬られた。右京亮は豊後に移り、彦六は早世、右近は東七組山の村下に居住した。
河渡の城は、家老の林惣兵衞に守らせた。この惣兵衛は十八條の生まれで、右京亮の妹聟であった。その後、上意により召し出され、土佐國へ「稲葉内匠」と改名して赴いた。のちの丹後守の先祖である。
河渡の城は年々に朽ち果て、慶長中(1596-1615)に破却された。井戸十郎は三百貫の小知(小領主)で、右京亮は二万石余で、曽根は別知であった。この城の構えは井戸十郎の時代とは異なっている。井戸氏の知行は黒野城主加藤氏に奪われ、辛うじて城を守るまでであったが、一鐵が城中の増補・修理したことにより一城の名を得たのである。
美江寺の城主和田将監義直は、子息の端門院可心ならびに杉本市兵衛は、その代に武田信玄の勢力が夜討ちに入り、火を放ったため防ぎきれず、兄弟共に城を落ち延びた。十七條村の城主は、林左近の嫡子林佐渡守越智正長が居住していた。信玄は夜討ちして正長の嫡子玄藩亮は討ち死にした。二男の惣兵衛は退去し、十九條村の城主の織田助解由は、永祿五年(1562)五月三日の夜、信玄と龍興と軽海で合戦の時に討ち死にした。軽海の城主加留美長勝は、 安八郡加納にて逝去し、 軽海山長勝寺がこれである。 朝倉太郞大夫高清が住んだ後、土岐氏によって要害を築かれ稲葉氏が数代住居した。のちに元塵が御座野村遠見山へ、応仁(1467-1469)の頃に移り、六十五年は空き城(明城)となっていたが、やがて安藤五左衞門守宗が住んだ。元亀二年(1571、未)五月十二日に大田村で討ち死し、城主は断絶した。同所の西の城は池田勝入の臣の片桐半右衛門が、永禄三年(1560、申)にはじめて要害を構えて居住した。その後、天正十七年(1589)から一柳伊豆守越智直末が住居し、相州北條氏直と戦い、小田原山中の城で討ち死にし、城主は断絶した。直末は岐阜今泉の出身で、市助と号し、知行は六万石余。舍弟を四郎右衛門直守といい、秀吉公に召し出されて尾州黒田の城を賜り三万五千石を領した。
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『美濃明細記 巻第十三 茂々久岐根付録』(伊東実臣、元文三年-1738)