「うつうつ」という。内津村にあり。今妙見社と称す。『延喜神名式』に春日部郡内々神社、『本國帳』に正三位内々天神とある官社である。『集說』に、「今天神ヲ錄シテ春日部郡ニ在リ。 是レ小豊子建稻種命ノ廟祠也」とあるように、建稻種命を祀る社である。寛平(889-898)の『熱田縁起』に、日本武尊が尾張に向かって還り、篠城に到り、勧められ食べようとしていた時。稻種公の傳を従者久米が八腹の駿馬で馳せ来て報告した。「稻種公は海に入って没した。」日本武尊は聞いて忽ち悲しみ泣く。「現(うつつ)か。現のことなのか。」その地を内津と名付け、神社は今、天神と称し、春日部郡に在る。と見える。建稻種命が駿河の海でみさご鳥を捕ろうとして、誤って海に入り失せなさったのを、ここで聞きなさったので、この建稻種命の社を建てた。

ところが、中世に妙見寺が祭祀を掌って以来、混一して稻種命社とは称さず、妙見社とのみ言い慣わすようになった。その妙見菩薩は大留村にあるが、こゝに移したものともいい伝えて、かの村に元妙見という地があるという。それはいつの頃の事か定かでない。妙見菩薩の事は、『七佛説神咒經』に、もと北辰の名であると見える。昔諸國に勅して祀らしめた攝津国能勢郡・伊勢国山田郡の妙見の類は今なお多く、この地にも祀っているが、本地垂跡といった事から、妙見を建稻種命の本地と言い慣わしているのだろう。こうして天正三年(1575)跡形もなくなり、社記は悉く失われたので、あらぬ名を称するもよく分からない。社の上にある山に、奧の院というものがあり、当社創建の地と言い慣わす岩窟がある。その深さ二間(約3.6m)あまり、その中に小さな祠がある。これまた建稻種命を祀る。また岩の上に岩窟があり、深さ八九尺(約2.4-約2.7m)、常に清泉が涌き出す。潮の干満に従って水量が増減する。当社の神饌は、この水で調ずという。俗に「御鹽水(おしおみず)」と称す。

さてこゝに至る道路は、大石をうがちて段として、たいへん険しく、登る事は容易くない。また天狗岩というものは高さ数十丈(一丈が約3m)、天に聳えるように、奇状である。一の鳥居は社頭から十余町南の方、西尾村の地境にあったが、慶長年中(1596-1615)焼失して、今は古跡のみ残る。一説には、日本武尊の「現哉(うつつか)」と仰せられた地はこゝでなく、隣村の西尾の戌亥の方の山に旧跡があって、今は山王権現を祀り、古妙見と言い慣わすという。その是非は詳らかでない。

例祭 八月十五日。車楽を出し、神輿渡御の行粧がある。この辺りの大祭で、大いに賑わう。

別當妙見寺 天台宗で、野田密蔵院の末寺。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

春日井市内津町24番地
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