七寶山小笠原聖徳寺。七間町通袋町下西側(現名古屋市東区東桜二丁目)にあったが、のちに当地に移った。東本願寺直末の院家(高い格式をもつ)である。
寛喜年中(1229-1232)に親鸞聖人がこの寺を羽栗郡大浦(もと尾張の地であったが、天正十二年 [1584] より美濃に属す)に建立し、直弟閑善(俗姓清和源氏、甲斐國巨摩郡の住人小笠原左衞門尉長顯が剃髪し、親鸞聖人の弟子となった)を住持として、七種の霊宝を付与した古刹である。
永正年中(1504-1521)に中島郡富田に移し、(これより先に同郡刈安賀へ移し、再び大浦へ戻ったという。天文十八年 [1589] 、信長公が斎藤道三と富田の聖徳寺で会見したのは、この寺である)慶長八年(1603)清須に移り、同十五年(1610)当府(名古屋城下)に移った。その後、当地に移されたが、その経緯は詳らかでない。
尾州聖德寺鐘銘の叙 ※最低限の現代語訳を加えています
尾陽の聖徳寺は、親鸞聖人の高弟の閑善師が濃州(美濃)で興した。次いで尾州(美濃)に移し。またまた、濃州に戻した。最後的に現在の護屋(名古屋市中区)に改めた。それからここに伝わること、およそ十七代。このごろ、灰に変わってしまったが。多くの檀家の力によって、日ならずして堂宇重ねて新しくなり、鐘楼も再び整った。門垣の中に響き渡り、周辺はとりわけ日没と暁を感じる。十七代の法孫で、諱は顯應という者は、私と心からの友となり、俗諦一言を乞い、これを銘文として、鯨音(鐘の音)と合わせる。顧みれば、平凡な身で、この命をこなせるだろうか(いやできない)。しかしながら心からの良交であり敢えて平凡をもって断れず。謹んで数言を連ねて、その意に答える。そして、永く善師の教を揚げると云う。
銘曰
聖徳肇興 善師開宗 立法闡化 權輿美濃 法無常住
護屋是營 運丁灰劫 再新琳宮 琳宮司漏 多乳鳴銅
警醒旦暮 震覺昏蒙 百千萬劫 聖德善功
(:
聖なる徳が興り、善師が宗派を開き、教えを確立し教化を開く。美濃から始まった。世の法に常にあるものは無く、護屋で営まれてきた。火災に遭い灰となったが、琳宮(美しく寺院)を再建した。琳宮の時を告げるのは、多くの乳(突起)を持つ銅の鐘。醒めるように朝夕に鳴り響き、 迷う人々を震覚させる。百千万劫という果てしない未来まで、聖なる德と善き功積を続ける。
峕
寛文二年(1662)壬寅季春上浣三日
大明虎林戴髮俗子陳元賛 竦息 撰
鳬工 水野藤原政長
参考
『尾張名所圖會 前編 巻二』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)