名古屋蔵人高信の屋敷跡が、名古屋城三の丸の内、西南の方の武士屋敷の内にあった。『那古野古圖』の名古屋山三屋敷も同じ所。

蔵人高信は旧き地侍で、今川氏豊が城主だった時より以前の人である。或いは今川麾下の士だったともいう。山三はその一族で、『鹽尻』に

名古屋因幡守敦順が子山三郎、後九右衞門といふ。母は織田刑部大輔の女。山三郎浪人の後、出雲の巫子くにといふ女を具し、京都三條にて女歌舞妓をなす。其後大坂にて、淀殿とも惡(悪)名の沙汰ありと云々

と見える。

山三郎ははじめ蒲生家に仕え、のち森作州侯の家臣となった。森家の系図に、森侍従・忠廣朝臣の母は名古屋山三が妹であったとみえ、その縁により奉公したのであろう。山三は後に井戸某によって害されたともいう。

またお國は歌舞の世界に名高く、信長公・豊太閤の御前にも出て、その他高貴の門に入って熊(わざ)をなした。その躰は天冠をいたゞき、白衣を着て、水晶の珠數を掛けて舞う。ある時は男子の体に帯刀し、名古屋帯に組紐を下げ、或いは髮を垂れ、仏号を唱え鉦をならして歌舞したという。凡そ山三・お國の事、『雍州府志』をはじめ、近代の書にも、諸説さま〴〵にして一様でないが、この二人が歌舞妓の俳優を世に出し始めたことは、諸人の広く知るところである。

参考:『尾張名所圖會 前編 巻一』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

名古屋市中区三の丸1丁目9番3号