条里公園周辺には大隆廃寺跡があるが、正確な位置は不明。
天台宗・伝教大師(最澄)の創建と伝え、放光山大隆寺と称した。
水田中に塔心礎二つが露出し、これを中心に大正十三年(1924)に県史跡に指定された。遺存する宝塔心柱の礎石は、一基は長六尺二寸(約1.9m)巾五尺二寸(約1.6m)、中央に径一尺五寸(約46cm)深さ七寸(約20cm)の凹みがある。もう一基は長四尺五寸(約1.4m)巾三尺五寸(約1.1m)中央に径一尺(約30cm)深さ四寸(約12cm)の凹みがある。この附近一帯に古瓦が散布し、内に二重八辨の蓮華紋ある巴瓦や狐紋の唐草瓦、二重八辨の紋様がある磚が混在していた。
戦後に指定史跡は解除され、礎石は放置されていたが、終戦から三年後昭和二三年(1948)に工場が建設され礎石は掘り出され大きい方は工場正面の築山に、小さい方は町民俗資料館へ移され、寺跡の大部分は失われた。
往時は金色本堂・講堂・寶塔・會殿・方秀院等があった。出土した川原寺式の瓦から白鳳期(645-710)に東西両塔を持つ大伽藍が建ったことが分かっている。『大興寺康安二年(1362)文書』に、「衣斐大隆寺 - 衣斐大隆寺田畑一所及揖斐庄内大隆寺田畑一所を揖斐出羽守頼雄大興寺に寄進す」と見え、 『康富記』に、「嘉吉二年(1442)九月廿八日美濃國江斐寺塔供養也等月上人導師者也」と記されている。中・西濃には白鳳期の大寺院が多く、壬申の乱に大海人皇子(天武天皇)に従った豪族が、朝廷の仏教興隆の呼びかけに応じたのだろう。上磯古墳群に葬られた子孫が建立したと推測されている。
斎藤利政(道三)が土岐守護家に下剋上して相羽城・揖斐城を攻略する過程で、天文十五年(1546)四月十八日、齋藤道三の軍勢が井の口より乱入、兵火に罹り焼失した。宝塔の真木は焼き残り永禄(-1570)の末まで残った。
参考
『大野町史・通史編』(岐阜県揖斐郡大野町、昭和六〇年)160-163、231頁
『揖斐郡志』(揖斐郡敎育會、大正十三年-1924)810頁