当所近村の商荷物はもちろん、苗木領より日々人が背負い運ぶ荷物や、牛馬に載せた荷物などを船積めし、木曽川を下って各地へ運送するのに便利な所であった。兼山あたりから湊の町並みはにぎわしく見える。馬も渡せる船が一艘、伊岐津志村(現可児市兼山)に通じていた。
初来の記録では寛永十二年(1635)頃に舟が24、5艘あったという(『愚堂国師年譜』)。昭和十一年三月に今渡の発電所が着工すると、舟は下ることができなくなり、のちに兼山ダムにより湊も水没した。
湊の位置は、現在の八百津橋付近にあたるが、橋架設以前に渡場があり、この渡場の周囲が舟付場となっていて広い川原が広がっていた。川幅も広く、対岸伊岐津志までの距離は約105メートルといわれ、直深で舟積みにも大層便利であった。川原には奥から運ばれたものや、 下流から陸上げされた荷物が山積みとなっていた。(『八百津町史』)また、舟大工が古来から黒瀬に居た。
寛永十二年(1635)頃の24、5艘から増加し、寛保元年(1741)の時点で黒瀬に60艘あった。その当時、木曽川筋の舟付場にあった舟の数は、兼山(4)・川合(15)・下古井(2)・太田(4)、大脇(土田)(3)・取組(坂祝)(4)・勝山(坂祝)(3)とあり、いかに黒瀬に多くの舟が集まっていたかわかる。天保九年(1838)には68艘だった。
明治十一年(1878)から十八年(1885)までは「舟数八〇艘」と見える。同二〇年四月の調査によると、小廻舟79艘、その外に9郷(免税舟・漁舟)あり、この頃が最高だった。大正二年(1913)には23艘にまで減少している。
下り舟は積載量460貫(1,725kg)と言われ、上り舟は100貫(375kg)程度であった。ただし上り舟の場合は名古屋・桑名から笠松までは1,000貫(3,750kg)ほど積んだという。
積荷物
炭(おこし炭・かじ炭・紺屋炭)船一艘に大俵64・小俵80を積んだ。薪・割木・挽木類・材木・檜曲輪・小豆・こんにゃく芋・茶・氷・生糸。
着荷物
青物(野菜)・油(種油)・石油・生鰌・味噌・溜・塩・砂糖(黒)・めりけん粉・豆粕・蜜柑・菓子・乾物・畳表・操綿・打綿・唐糸・太物・金物・荒物・古金・藍玉・小間物・陶器。
苗木藩の江戸回米
ここから船で回漕された。藩内住民の生活物資もここに陸揚げされ馬の背によって、蘇原村(現白川町)藤井を基点とし久田見村を経て瓷割坂をこえて八百津に達する久田見街道などで村々へ運ばれていた。
薪舟:薪を満載した舟が、木曽川随一の難所とされた可児川と木曽川の合流する大濤可児合で、軸先が水の中に突っ込み、積んでいた薪が浮き上って木曽川を流れることが度々あった。
氷舟:木曽川筋で製氷場があったのは草落・逆巻・八百津地内の順出、本郷・上吉田村の中嵩・久田見の長者屋敷にあった。毎年六月下旬頃に氷倉庫を開くと、氷を背負って黒瀬湊へ運ぶ人々が、険しい北山街道を早朝から列をなしたとのことである。氷を積んた舟は、笠松・桑名・名古屋の氷蔵に運んだ。
特産品:茶や生糸などの産物は桑名まで運び、桑名から大八車で四日市に運び、ここから蒸気船で横浜に送ったようである。
塩と炭の交換:塩はかなりの量が黒瀬湊に陸揚げせられたが、白川方面から炭二俵を背負って、白川町字茶碗、久田見を経て黒瀬まで来て、塩一俵と交換して帰ったという。また、これら積荷の他に人も乗船した。荷物の間に乗る場合と、一艘の舟に2、30人乗る「人舟」もあった。
行程は朝五時頃黒瀬を船出して、その日の夕方五時頃桑名につき、翌日昼頃名古屋についた。帰りは名古屋から千本松原まで一日かかったが、南風の場合は笠松まで来られた。名古屋往復には五日かかった。この当時ではこの舟便が最も早い交通機関であった。
料金は犬山まで一人一五銭、笠松まで二〇銭位であり、伊勢まいりの人々は桑名まで乗舟した。学校の修学旅行にも犬山まで舟で下ったこともある。
享和元年(1801)通賃定。
兼山(500文) / 川合(600文) / 小山・太田・土田(700文) / 勝山(900文) / 鵜沼(1,050文) / 犬山(1,180文) / 円城寺・北方・草井・無動寺(1,332文) / おこし・玉の井(1,524文) / 中島・今尾・津島・桑名(2,108文) / 大垣・烏江・栗笠(2,308文) / 名古屋(2,688文)
大正2〜7年度の行先別の乗船者調。
牧野(3)、古井(11)、今渡(12)、土田(2)、太田(113)、勝山(21)、栗栖(3)、犬山(841)、草井(104)、宮田(21)、川島(5)、米野(1)、北方(137)、笠松(151)、計:1,447
この1,447人の乗船者の地方別の内訳は、八百津が大部分を占め、加茂郡内では久田見・福地・飯地・蘇原・白川・潮南、可児郡では錦津・上之郷だった。乗船者を明治二十四年(1891)の2,643人に比べると大幅に減少している。これは大正時代に入り、自転車が普及したことや、多治見・八百津・伊岐津志に乗合馬車、犬山・八百津間に定期自動車便が発達したことによるものであろう。白川街道の開通、更に中央線・高山線の開通によってより一層甚だしい影響を受けるに至った。
細目村-伊岐津志村(対岸)の渡し。明治十四年における渡船の賃銭。
人十銭、馬二十銭、両掛十五銭、長持四十銭、人力車三十銭、駕籠四十銭
参考
『八百津町史』
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)