※地頭山城跡におく。
大永元年(1521)、六角定頼は犬上郡に入り、高宮城を落として進み、湖北に入ろうとした。浅井亮政はこれを聞き、三田村定元に小谷城の留守を命じ、自ら兵三千を率いて南に出た。諸将集まり、三千人。
定頼は太尾城を攻め、子・義賢は抜け道から攻めるが、赤尾教弘が無常堂で防ぐ。定頼はその将の永原・平井・三雲らに◎佐和山を攻めさせ、自らは◎磨針嶺に陣を置く。亮政は六波羅山に駐屯し、伏兵を蓮華寺・地頭山に置き、先鋒の部隊に挑戦させた。偽って退いたところ、敵はこれに乗じて進んだため、伏兵を一斉に起こしてこれを討った。そのとき、義賢はすでに教弘を殺し、長駆して浅井軍の背後に出た。定頼は奮戦し、浅井の兵は大敗した。木村小一郎・小室隼人ら百五十人がこれで討死した。
亮政はその将の赤尾清綱・海北貞兼と再びこれを討とうと、丘に陣を張った。部下はみな逃走し、そのとき、浅井政信が亮政に説き、囲いを打ち破って新庄城に入ろうとした。今村城主の今井頼弘は六角氏に通じていたが、亮政はこれを知らず、顔戸山に布陣させた。そこで政信に言って「この戦いでわが良将を失った。今小谷に帰ったとて、何ができようか。今、敵は勝って驕り、必ず備えを怠っているだろう。一挙にこれを全滅すべし」と。
そのとき定頼は地頭山の下に陣を張っていた。亮政は夜、兵を分けて門根・醒井に出し、自らは精兵を率いて地頭山に上り、これを挟撃しようとした。今井頼弘はこれを定頼に告げ、急ぎ山上を攻めさせた。亮政は謀略が漏れたことを知り、自殺しようとした。大橋秀元がこれを止め、井口義氏がその容姿が亮政に似ていたことから自らその甲冑を付け代わりとなって死んだ。定頼はその首を見て本物とし、大いに喜び、兵を引き揚げた。
亮政は髪で顔を覆い新庄城に帰り、再び兵を率いて定頼を追撃した。◎佐和山から磯野員吉が出てこれを待ち受けた。定頼は前後から挟み撃ちにされ、部下は潰乱した。小倉・高野瀬・海北らも死に、亮政の兵は四百余人を討ちとり、定頼は◎観音寺城へ逃げ帰った
参考
『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)