比良村と味鋺村との境にあり。庄内川が毎年の流砂で川底が高くなり、豪雨で満水になると、激しく波が溢れ、堤を越し、年々、小田井・大野木をはじめとして数十村が水害に遭い、その年の穀物は不熟と甚だ良くなかった。天明四年(1784)源明公の命を奉り、水野某が工夫して庄内川の堤を長さ四十間程半を切り下げ、五合目からの高水を大蒲沼へ分水し、新川を堀り割り、暴れ水を通して、長い間の損害の憂いを除いた。

洗堰の様子は、 大きな石籠を数百重ね置いて、その備えが堅固である様子は言葉にならない。こうして後は、洪水といっても堤を切る事もなく、水難を忘れられたので、その下流に属す村々は安定した生活を取り戻した。よってかの村々の者は、水野某の功が莫大なことを知り、官許を得て、文政二年(1819)比良村の北の新川堤の上に治水の碑を建てる。この事は海東郡砂子川の條にも記してある。詳しくは以下の碑文を見て知ることが出来る。


水野士惇君治水碑

※現代語訳しています。

愛知春日井郡の中に二つの川が有り、一つは美濃土岐郡から出る勝川、 一は三河加茂郡から出る矢田川で、二つの川が合流して荘内川となる。その川は荘内を廻って海に帰る。

明和四年(1767)丁亥七月。激しい雨が盆を傾け、大水が溢れた。猿投山の谷口は激しく崩れ、愛知春日井二郡の水害が最も甚だしかった。家屋は漂流し、人馬は溺れる。その後、砂礫が敷きつめられ堤防はしばしば決壊するようになった。

安永八年(1779)己亥八月。洪水が再び起こり、衆民は溺れ困り果てる。明公は駕を命じて民の疾苦を視て深く憂えた。參政人見彌右衞門の使いの小野泰子魚は、度支長の水野千之右衞門源允[士惇]に治水を当たらせた。こうして士惇を首として事を謀り、精しく水行を調べた。比良村の大蒲沼は、群村の水が深く合流するため、その沼を施して効果を得ることにした。

天明四年(1784)甲辰、沼の南の味鋺堤を穿ち、その堤の腹に五分の石堰を築き、比良村から海東郡榎津村の間に別の大きな川を通し、新川と号して荘内川の水勢を削いだ。以後、勝川が増水して堤五分を越えると、その水は石堰に溢れて、大蒲沼を経て新川に入る。勝川の増水は急にその半分を滅らす。

往昔、五條川の水は八屋村を経て荘内川に合流したため、その洪水は五條川に遡り、海東郡を害していた。そこで八屋の派口を塞ぎ、五條川の水を新川に合流させ、また荘内川の河口を中須村に塞ぎ、二川を併して下一色村の南に至るまで、荘内川・新川の二派は僅かに一堤を隔てて海に注ぐようになった。

こうして群村は悉く災を免れるようになって、三十六年。私が巡視するごとに、老里正と共に士惇の治水の功を仰ぎ、かつ長い年月を経て、当時の者は少なくなり、安穏に暮らし学び、そして災いを免れる由を知らないことを嘆く。今年、士惇は八十六となり、庶民はその徳を賞し、かつ士惇の寿考(長生き)を祝う。碑を立てて後世に伝えたいと乞う。私が思うに、後の正しくいきわたる令が無く、異政も多いだろう。人の為に生きている内に碑を立てる。今、その故事を追うのも、それ以上の事はなく、君の為に碑に刻み、民にその恩恵を忘れさせない為に。夫子魚君・士惇君を挙げ、専ら治水を掌らせる。又造牐令武藤加六藤原直逵を副として、水利を量り、ともに力を尽くす。土功(土木工事)は遂に成り。士惇は長寿を保ち今に至る。毎年、恩華を被り、事績益々明らかになる。できることなら、その名石とともに朽ちない事を。ゆえに碑を比良の堤上に建てて賞す。

赫矣二賢。寔天所啓。爲爪爲牙。維國之體。
允文允武。維治之柢。吁士惇君。水工濟々。
銘心禹貢。委質張州。辟商羊害。救昏蟄憂。
慕若父母。望邁等儔。不拘小節。寛大壯優。
陸大司農。逾事治水。修築河渠。撫恤邑里。
老安散官。講武卓爾。遂以舊功。恩光倍蓗。
底平治績。立奠居基。民承惠澤。感星霜移。
厥功厥壽。與頌與嬉。丕々懿徳。永在生碑。
文政二年己卯十一月
張藩 大代官 樋口又兵衞 中原好古謹誌

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二人の賢者は輝かしく。実に天の啓示した所で。爪や牙のように。国の根幹をなす。
文武どちらも。治める基礎である。ああ士惇君。水工たち。
心は禹貢に銘し。質を尾張に委す。商羊の害を避け。暗愚の憂いを救う。
父母のように慕い。仲間よりも目指し。小さなことに拘らず。寛大で壮優。
大司農にあたり。治水を仕事とし。河渠を修築し。村里をいたわる。
老いて閑職に安んじ。武を講じて優れ。遂に旧功によって。恩光は倍増する。
平穏をもたらしただけでなく。安居の基礎を立てる。民は恵沢に継承し。星霜の移るを感じる。
その功その寿。ともに讃えともに嬉ぶ。大きく素晴らしい徳。永く碑に在るだろう。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

北名古屋市久地野権現124番地