淸須本町の東の方にある。
この地が国府だった時、城下の氏神として繫栄した。宝亀二年(771)に当国で疫疾が流行した際、この地に素盞烏尊と大己貴命を祀って災を払った。また大同二年(807)に橘逸勢朝臣が、神皇産靈尊・國狹槌尊・天御中主尊・正哉吾勝尊を祀った。これより当社二宮・八王子・下ノ八王子・正眞子四座の神と称すると、社伝にある。
慶長三年(1598)豐臣秀吉公が病の時、産土神の清須明神へ御祈念したが、その明神を今では何れか分からないが、この山王社はここの氏神で、また中島宮及び上畠神明との三社は、同等の古社であり、みな清須明神と称すべきなので、三所で御祈念申上げたのだろうか、現在では詳らかでない。『御ゆどのゝうへの日記』
慶長三年(1598)六月二十七日、大かふ御わづらひ、七月十一日大かふの親子より申して參り候。神々への御願立に勅使たてらるゝ。さいをんじ大納言・くわんじゆじ大なごん・こが大なごん・中山大なごん等十六人、かなたこなたへまゐらるゝ。尾張のきよすの明神・あつたの明神へは程遠くて、道のほどもざうさとて、あなたより人まゐらせらるゝ
堂上はまゐられず。御太刀・馬代、御所より出さるゝ
後伏見帝の御宇(1298-1301)、社を造営し、祠官を定め、社領を寄せる。また天正八年(1580)十二月、織田太郎左衞門が二十一社を造立して、本社の左右に列した。神宮寺堂は弘法大師作の本地薬師仏を安置する。天正十二年(1584)長久手合戦の兵火に、諸宇が焼失し、今は頗る衰えている。太閤の政所は当所の生まれなので、殊に崇敬あり、慶長三年(1598)三月垣塀が築かれ、また政所の母君の、天正十八年(1590)九月奉納ありし三十六歌仙の扁額ありて、今も蔵す。また性高院君が当城に居給いし時、慶長八年(1603)八月十五日、御家中の三十余人は射礼を行い、その姓名を記した板がある。
桜は弘法大師が当社に詣で、桜の枝を松に接がれたと言い伝えられる奇木だったが、今は枯れている。惜しむべし。また「さがり松」として、本社の西北にある大樹は、むかしの大風に枝が折れて、今はその跡のみ残る。 連理(二本が混ざり合った)の椿は今も繁茂している。
慶長四年(1599)霜月、花井釣二が願主となって鑄した鐘だったが、今は美濃国池田郡片山村正林寺という一向宗の寺に伝わる。
朝日殿寄附の歌仙の額。慶長八年(1603)伊藤蘭丸願主の猿の扁額・矢二手・猿古面。
八月二十一日。
丹羽氏
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)